「中国残留邦人問題」とは
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「中国残留邦人」とは
日本が作った傀儡国家「満洲国」(中国からは「偽満洲国」とよばれている)。そこには多数の日本人がいましたが、中でも国策「満蒙開拓団」として多くの日本人が「渡満」しました。1945年8月。旧ソ連の侵攻等敗戦による混乱で避難し、転々と逃避行を続け、多くの犠牲者がでました。その中で、中国に置き去りにされ、中国人家庭で保護され、帰るに帰れなかった人々が「中国残留邦人」と言われる人々です。「中国残留邦人」は「開拓団」以外の人もいますが、その置かれた状況から、圧倒的多数が「開拓団」関係者です。
日本政府は帰国が実現する手立てもとらず、何十年もの歳月が流れていきました。
「開拓団」
「中国残留孤児」と「中国残留婦人」
政府がこの問題で動き出したのは、「中国残留邦人」の身元・肉親捜しからです。ここで政府は、敗戦時12歳以下で身元の判明しないものを「中国残留孤児」としたのです。これが「中国残留孤児」という呼称の始まりです。
これ以外は「中国残留婦人等」と呼称されています。13歳以上の「残留者」は女性が圧倒的なので「中国残留婦人」と呼ばれているのです。「中国残留婦人等」はそれまで「自己の意思で残留」したものとされ、ずっと以前からあった帰国旅費の支給などわずかな援護のみで、国としての援護はほとんどありませんでした。
「開拓団」の国民学校で雑用係として雇われていた中国人の少年(右から2番目)とその友だち
(この少年が「開拓団」の土地は中国人から奪ったものであることを知らせてくれた)
どうして長年日本へ帰国できなかったか「冷戦構造」の中で、日本政府はこの問題に目をつぶり、むしろ「戦時死亡宣告」や「自己意思で残留」として処理してきました。1972年9月、日中の国交が正常化されましたが、動いたのは民間です。民間の動きの中でようやく日本政府は「孤児」の身元・肉親捜しを開始しました。ですが帰国に関しては、「個人の問題」としていたため、日本にいる親族が協力しなければ帰国できませんでした。そのため親族がわからない「中国残留孤児」は帰国できなかったのですが、1984年に「身元引受人」制度を設けて帰国させることになりました。ですが逆に身元の判明している「中国残留婦人等」は、親族の協力がない限り帰国ができず、1993年9月の「残留婦人の強行帰国」にいたります。
- 「中国残留邦人支援法」の制定経緯
1993年9月に、日本のパスポートをもつ12人の「中国残留婦人」が成田空港におりたちました。当時「中国残留婦人」についても特別身元引受人制度がありましたが、帰国については日本の親族の同意が必要とされていました。また、「特別身元引受人」自体の絶対数も不足していました。「特別身元引受人」制度をつかわず、行き場所を定めないで帰国したのが、「強行帰国」と言われたゆえんです。この「事件」が契機となって、1994年に「中国残留邦人支援法」ができたのです。ここにはじめて、帰国と帰国後の援護は国の責務と明記されました。敗戦から50年も経ていました。
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「開拓団」の畑
高齢化へ募る不安
「中国残留邦人」がようやく帰国できても、帰国後の生活支援等はあまりに不十分でした。「中国残留邦人支援法」はできましたが、年金特例を別にして具体的な生活支援はないに等しく、「生活保護が唯一の支援策」と言える状態でした。しかも、高齢になって帰国しているため、言語・習慣など日本での生活には大きな壁がはだかったままでした。家族や子どもたちに対する施策はそれ以上に不十分でした。こうして大半が「生活保護」というまま高齢化を迎え、老後の不安に直面。老後保障を求める請願を何度も出しましたが、実現できませんでした。
「開拓団」の畑
人権問題
「中国残留邦人問題」は人権問題です。この問題が生じたのは、日本政府に「中国残留邦人」に対する戦後責任・戦後補償としての「人権回復・人権救済」の意識が欠けていたことに大きな原因があります。
国家賠償訴訟へ
こうした流れの中で、2001年12月、当会の会長をはじめ当会会員3名の中国帰国者が、国の責任を明確にし、老後保障等あらたな施策の策定を促すために、国家賠償請求訴訟を起こしました。この後各地で中国帰国者が同じ国家賠償訴訟を次々に提起しました。2006年2月、東京地方裁判所は、当会の会員が起こした訴訟について請求は棄却したものの、原告が主張する事実についてはほぼ認め、政治的責務があったのにそれを怠ったという判決を言渡しました。次いで、2006年12月の神戸地裁裁判はついに勝訴の判決を言渡したのです。
「開拓団」の畑 「開拓団」の村落
新支援策へ
多くの中国帰国者が立ち上がった国家賠償訴訟。この流れの中で、政府はこれまでにない生活支援等を盛り込んだ新施策をつくり、「中国残留邦人支援法」が改正されました。
ただし、この新支援策は上述した国の責任を認めたものではないという根本において問題があるばかりか、支援策の対象者やその内容も十分なものではありません。「中国残留邦人問題」はまだ解決してはいないのです。
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「開拓団」本部
「満洲国」の国旗(左)が掲げられている「開拓団」の入植時、現地の人々による出迎え
歓迎されていると勘違いしていたが、敗戦になると、、、。
いまの、わたしたちの問題~ゆたかな社会を
これは単に「中国残留邦人」についてだけの問題ではありません。中国への侵略、それに組み込まれる国民、ひとたび戦争が終わるや彼/彼女らを放置する国。「国家」と「個人」の関係などを鋭く問う問題です。他方、中国帰国者の存在は、「多文化共生」という課題があることを、浮き彫りにさせました。皆が人権を保障され、お互いが尊重しあえる社会こそが「ゆたかな社会」ではないでしょうか。物質的補償は絶対に必要ですが、それだけではないのです。これらは、一緒に暮らすわたしたち、わたしたちの社会が問われているのです。国会・政府・自治体のみならず、わたしたち市民が、「いま現在の問題」として共有し、戦争をしない国に、そして「ゆたかな社会」をつくるため、力をあわせることが大事なのではないでしょうか。
「開拓団」の国民学校
(この子どもたちは、ほとんど死んだ)